大久保に発電所を建設することについて、大正十年十一月十四日群長から諮問があった。天竜川電力株式会社の出願によるものである。 同社の社長福沢桃介は諭吉の養子で、持前の先見性を発揮して木曽川の電源開発と名古屋地方の電力供給を手中に収め、関西送電線も完成された余勢をかって天竜川にも触手を延ばしてきたのである。 村会は鳩首討議の末、同年十二月一日に次のような答申をした。①予定地は、大久保が耕地整理事業で揚水を計画している場所であり、中止を余儀なくされることは民意に反する。②取入口上流の下河原は、低地のため、ダムの湛水により悪水の排除が困難になる反面、一朝洪水の時は土砂の堆積と堤防が決壊するおそれがある。③舟筏の通行を妨げ、交易を損なう。④予定地は、魚族の繁殖する最適値で、ヤナ場でもあり、漁民の生計を脅かす。 から、以上のことを補償しない限り、反対である表明した。 そして、対策委員会をつくり、各団体の要求を吸上げ交渉した結果、大筋了解に達し、十五年三月一日に起工について同意したので、同社は即日着工した。 実は、最初の同社の構想によると、大久保~南向村葛島間には、下塩田、穴山に発電所を建設する予定であったが用地問題で不可能になったので、十五年春に至って断念、大久保が最有力として望まれ、南向発電所(前期葛島、計画出力二一.三二四Kw)の工事用電源を確保するための発電所として工期を急ぎ、完成させたものである。 出力は、一,五00Kwで、昭和二年十月十四日に運転を開始した。 当村と会社との間で締結した、契約書の概要は、会社側の負担により、①三村道路を分岐してダムに至る道路の建設。②大久保前河原耕地整理の水路の建設。③県道三村道路(大14群道→県道となる。)のうち、幅九尺の箇所の拡幅、(昭3、五,八八八円で完成。)④銭屋小路―中越間の里道延長五〇〇間の改修。⑤村の好意に対する報償金一万円。等で、逐次、実行に移された。(宮田村誌下巻) 変成岩の岩体の中にある先行性峡谷伊那峡の幅の狭あいを利して作られえたダム式発電所であって、高い落差を利用した大田切川系の発電所とは異なり、これは多量の水の水圧を利用したダムである。したがって貯水量の保持が生命である。 水量最大三三・四㎥/秒 常時二五・〇四㎥/秒 落差は五・四〇mで出力最大一、五〇〇kw、昭和2年9月から運転されている。ダム長サ一一八m、高さ ローリング以下三m、所属管理は当初天竜川電力(株)であったが、現在中電伊那制禦所で行っている。(宮田村誌上巻より)
昭和二年に発電所のダムによって形成された伊那峡は、一躍景勝地になった。 春から夏にかけては岩間つつじが美しく、奇岩には天狗岩、三尺岩、猿岩などがある。ダム完成年の十二月、商工会を中心に伊那峡保勝会をつくり、湖面にボートを浮べたり、釣り道具を貸与するなど観光地として売り出した。料亭の竜宮亭もでき、保養の先駆をなした。(宮田村誌下巻より)
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